小笠原紀行・その4

12/5PM 海

 昼食を終え、ウォッチング船は再度兄島瀬戸へ向かう。今度は場所が空いていた。兄島瀬戸北側、兄島よりの場所である。この兄島瀬戸は小笠原有数のダイビングスポットであり「海中公園」と呼ばれている。

 兄島瀬戸の流れはかなり速く流される危険性があるため、沖の方には出ないように注意される。念の為に浮き輪にロープをつけて流す。万一船から離れすぎて戻れない場合にはこのロープに泳いでいけばよいのである。

 クッキーが取り出された。魚への餌づけ用である。魚の方も慣れているのか、すでに魚影が集まってきている気がする。

 クッキーを2枚ほど握ってエントリー。海中に再度広がる、そして南島の時よりもはるかに澄んだ、はるかに蒼い、はるかにカラフルな世界。水底深くに広がるサンゴ、その間を縫って泳ぐ魚。魚の数も種類もずっと多い。

 魚が手から崩れていくクッキーを拾っていく。ロクセンスズメダイ、ヤマブキベラ、キイロハギ、その他色々な魚たち。これらの名前は後から調べて判ったものだが、何故きちんと予習していかなかったものかと今になって悔やまれる。予備知識があればもっと楽しめたことであろう。ヘラヤガラを見つけた時にはとんでもなく感動した。カワハギかウマヅラハギの類であろうか、特徴的な形の魚が泳いでいくのに感嘆する。

 流れは思ったよりもあるようだ。底が深いためもあろうが、足ひれを一所懸命動かしても前進している気がしない。魚が追い越していく。

 陽光のあふれる水中で過ごす時間は驚くほど早く過ぎ去った。船に上がり、他のツアー客とともに今の感動を興奮した口調で話し合う。目にした美しさを共有できるよろこび。

 そして、いよいよクジラだ。

 外洋で小型船マンボウがマッコウクジラのクリック音を見つけていた。水中マイクを装備したマンボウは、マッコウクジラが鳴声でエコロケーション(反響定位)するのを探していたのである。

 前甲板へ陣取る。船は全速力で外洋へ。向かい風もあり、大きな波を連続して突っ切る。揺れは激しく、手すりを握っていないと放り出されそうである。しぶきも激しい。合羽を着ているのだが、豪雨のごときしぶきで全身びしょぬれ。さらに吹きさらしで体温はどんどん落ちる。ウェットスーツを着ればよかった、と後悔するが、着るには一度船を止めてもらって後ろに戻らねばならない。それは気がとがめる。歯を食い縛って寒さに耐える。それでもさすがに南国、日が差すとそれだけで体温が確実に上がるのを感じる。

 30分ほども走っただろうか、やっと船は速度を落とした。この付近にマッコウクジラが居るようだ。船長はじめ客も周囲の海に目を凝らす。ブロウを見つけるためである。

 と、船が動きだした。船長がブロウを発見した様子だ。「○時の方向!」とスピーカーからの声。サングラス越しに海を見つめる。

 そして見つける白い潮吹き。波間に数瞬漂い風に散っていく。船はどんどんと近づく。

 ブロウが起きた。誰かが「あそこ!」と指差す。みながそちらを注視。

 さらに船が近づくと、波間に浮かぶ黒い肌が見える。丸っこい頭から噴き出る潮。

 マッコウクジラだ。ついに逢えた。

 土佐の海でみたニタリクジラとは形状が大きく異なる。ニタリクジラはイルカのようなしぐさで海面に姿を現わす。見えるのはほとんど背中の隆起部。鎌形の背びれが特徴的で、数回呼吸を繰り返して海中に潜る。一度潜ると十分ほどは浮かばない。

 しかしマッコウクジラは、丸い頭からこぶのような背びれまでの間すべてを海面に浮かべている。あまり頻繁に潜ることはしない。しばらくの間浮かんでいて、潜る時には尾を海面にあげて一気に潜る。潜ったら数十分は出てこないのだそうだ。潮もこころなしか濃い感じがする。

 最初の出会いからしばらくして、別の個体が現れた。今度はそちらへ。それを観察しているとまた別の個体が発見される。どうも今日はアタリの日だったらしい。若いオスが多かったようだが、4頭が並んで泳ぐ、というような光景も目にされた。さらには6頭のマッコウクジラに取り囲まれるという事態も。

「このまま襲われるんじゃないだろうねえ」と誰かが冗談めかしてもらしたが、あの瞬間にはみな自然への畏敬を心のどこかに潜めていたはずだ。

 日の傾く中、ブロウをきらめかせて泳いでいくクジラたちは、確かに畏敬すべき美しい生命であった。

 メインイベントのもう一つ、ドルフィンスイムはまだ果たされていない。ミナミハンドウイルカを探しながら船は外洋を行く。しかし今日はイルカの日ではなかったらしく、まったく発見情報が入ってこない。

 かなり走り、やっと2頭が見つかった。しかしこの2頭は船に興味を示し周囲を泳ぎ回るものの、人間と一緒に泳いでくれるほどの好奇心は持ち合わせていなかったようだ。結局、今回のツアーではイルカとともに泳ぐことはできなかった。

 しかし、これで次回への楽しみができた、というものだ。夢をかなえるため、もう一度来てやろう。そう思わせるに十分なツアーだった。

 波に揺られながら日没を見物し、港へ戻る。すっかり暗くなった中、接岸して荷をおろす。全身塩だらけだったのだが、えいと思い切ってTシャツショートパンツを着て、ゴアの上着を羽織る。

 帰りはもちろん原付。帰りがけのわたしに、通りすがった同行の女性客二人が「原付じゃ寒いでしょう」と声をかけてきた。にっこりわらって手を振り、「そちらもお気をつけて」と返す。同じ船に乗り、お互いに多少の親近感というものがわいたのかな。

 ゴアテックスの上着はきちんと風を防いでくれた。宿に帰り着く。「やっと帰ってきたのか」とおじさん。急いでシャワーを浴び、おじさんとふたりで夕食。缶ビールをどんどんと飲む。

 TVを眺めると、本土でやっているのとおなじ番組。ここも東京なんだよな、と不思議な気分になった。

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