国体愛称戦国偽史

by 光圀こうさく

国体こと国民体育大会。第1回国体・夏期秋期大会は、1946年に京阪神地方で開かれましたが、この頃の国体にはまだ愛称がつけられていません。はじめて国体に愛称がつけられたのは、1966年、第21回大会である大分の「剛健国体」でした。

その翌年が埼玉「健全国体」。このまま剛健→健全→全力→力士のようなシリトリ路線になると国体の歴史も変わっていたでしょうが、良心にあふれる福井はもちろんそんなことをせずに「親切国体」と続けました。そして次の長崎は「創造国体」。四字熟語の予定調和ムードが漂い出します。

ところが翌年の岩手。まつろわぬ民、エミシとも呼ばれ中央政権に対抗し続けた血がここで騒いだのでした。

これまでの路線を一新すべく「みちのく国体」と地域色を打ち出した岩手。業界には震撼が走りました。続く和歌山も、四字熟語路線に迎合するかと見せかけて地域色も盛り込んだ「黒潮国体」。負けておられぬとばかりに鹿児島が「太陽国体」と熱いパワーを見せつければ、暑さじゃ負けぬと沖縄は「若夏国体」でヤマト勢に対抗。千葉も時流に乗るべく、「若潮国体」で若さを強調しました。

ところがここで、千葉と長年ライバル関係にあった茨城が牙を剥きました。「水と緑のまごころ国体」。これまで暗黙の了解だった8文字フォーマットを完全否定したのです。これに驚くと同時にしてやったりと膝を打ったのは三重。日本一短い地名・津を有する三重は「三重国体」と文字数短縮作戦。対抗心を否定するかに見せ掛けてちゃっかりと自県の特長をアピールしたのでした。

こうなると次はなにが出るのかと周囲の期待が高まりましたが、意外にも佐賀は「若楠国体」と路線を旧態に戻しました。葉隠の国佐賀、旧きを尊び変革などは望みません。

しかしひとたび動き出した時代はすでに止まることを知りませんでした。青森「あすなろ国体」、長野「やまびこ国体」で四字熟語路線はまたも否定されます。さらに宮崎の「日本のふるさと宮崎国体」、この宣戦布告ともいうべき禁じ手に、ついに国体愛称は戦国時代へと突入しました。

それでも当初は栃木「栃の葉国体」、滋賀「びわこ国体」とおだやかだったのですが、島根が「くにびき国体」と銘打ってそもそも日本を作ったのはウチだと宣言します。これにだまっておられぬ群馬は「あかぎ国体」と名乗って国定忠次をかつぎ出し、何人たりとも前は走らせぬと対抗します。

争いを忌避した奈良はせめて雅やかにと「わかくさ国体」、狼狽した鳥取は「わかとり国体」と肉屋のような命名。こんなことではとても争いはやまず、山梨が「かいじ国体」を打ち出せば、海もないのに海路かい、と挑発するがごとき沖縄の「海邦国体」。

この好戦ムードを憂いた京都は「京都国体」と王道復古を目指します。その心を理解した北海道、「はまなす国体」と8文字フォーマットのために我が名を入れない自己犠牲。感じ入った福岡も、雰囲気をやわらげるため「とびうめ国体」と花の路線を継承。京都とは交流深い石川は正統派に「石川国体」と続け、山形は花路線で「べにばな国体」。一旦は平和が訪れたかに見えました。

しかし不運は続きます。翌年は香川・徳島の合同国体。ただでさえ対立のある者どうし、妥協点は「東四国国体」という歯切れの悪いものでした。またも漂う不穏なムード、混乱に乗じ愛知は「わかしゃち国体」と趣味に走ります。

しかし良心は死んではいなかった。翌年の福島「ふくしま国体」。これまでの正統8文字路線を継承するとともに、ひらがなの柔らかさによるイメージ戦略。これが大成功。広島も「ひろしま国体」とつなぎます。大阪も「なみはや国体」とこの路線を継承したのですが、神奈川は正統派の地味さを嫌いました。なにしろ横浜は異文化交流の街なのです。「かながわ・ゆめ国体」と、ついにナカグロ、記号文化を持ち出す神奈川。

時はまさに世紀末、1999年・予言の年。熊本が「くまもと未来国体」を開けば、時勢に乗じて富山「2000年とやま国体」、負けてはおられぬウチだってと宮城は「新世紀みやぎ国体」。お祭り騒ぎ大好きな高知が「よさこい高知国体」とはしゃげば、ここまできたか静岡「NEW!!わかふじ国体」。

もうこうなってしまうと、埼玉「彩の国まごころ国体」、岡山「晴れの国おかやま国体」の方が普通に見えてくるから不思議なものです。

2006年、「のじぎく兵庫国体」。

戦場に咲く一輪の花に、平和は訪れるのでしょうか。