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1979年、私は印刷会社のサラリーマン。

月曜から金曜までは、仕事が終わると雀荘へ。土日は競馬場という、判を押したような規則正しい生活をしていた。

ある日、パズル雑誌の打ち合わせをしましょうよ、と清水、樹村から誘いがあった。私より2人の方がつくる気を多くもっていたのだった。

町田市にある樹村の自宅で、第1回目の編集会議のようなものがもたれた。載せるパズルは2人の中で、あらかじめ決まっていた。

パズル門外漢の私は、タイトル、コピーとレイアウト、造本の方で関わる。

パズルとはなんぞや?

どうやって売る?

売ったらどうする?

誰も何も考えていない。

とにかく創刊準備号とかいってつくってしまおう。

そのあとのことはそのときに考えよう。ただ、同人誌にするのはやめよう、売れる本を目指す。売れなかったらやめよう、とだけ決めた。

この取り決めが今思えば、それから4年間、会社をつくるまでのドタバタを曲がりなりにも乗り切った原因だと思う。

3人とも商売をしたかったのだ。

しかし、肝心の内容はというと、自信もなければ比較するものもなく、ま、分からんけど、こんなのもあっていいんじゃないの、と軽い気持ちでうめた。

全28ページの薄っぺらな準備号をつくるのに時間だけがかかった。

清水は漫画家になりたい、樹村は子育ての主婦、私もサラリーマンで遊んでいるし、どこかピンとこない。

「目標は2000部だな」と私が言ったとき、樹村が「2万部」と言ったのを今でも覚えている。

どこから2万なんていう数字が出てくるのか。

それならドーンとスポンサーを見つけて、お金をかけて打って出てもいいのではないか。

しかし3人とも頭を下げるのは嫌だし、大体パズル雑誌って何なのかも分かっていないし。

創刊準備号の目次はこうだ(右上画像参照)。