参宮橋時代にもう一つ忘れられない事件がある。1988年のことだ。

この年の5月末に来客があった。福岡にある広告代理店の人で「新聞一面全部を使ってクロスワードをやりたい。つくってちょうだい」という依頼であった。来る者拒まずのニコリである。面白いではないか。「ほっかほっか亭九州」の500店舗達成記念キャンペーンでクロスワードが選ばれたのであった。

「最低でも10万通の応募がないと困るのですが」

「15万通は大丈夫ですよ」と答えたが何の根拠もない。で、これ自体は事件ではない。伏線である。その仕事で6月下旬に福岡へ行くことになった。ここから始まる。

パズルをつくり、納品の前々日くらいに清水が「社長は佐賀に行く、とみんな思っているわよ」と言ったのだ。周りの連中は私よりも「私の動き」を把握していたのだ。佐賀には競馬場があるのである。そこにはニコリの子どものミスターブーニーがいるのである。

前年に社台ファームがニコリの子どもを1頭だけ日本に持ってきて、母親がブーニーズという名前なのでミスターブーニーと名付け、北海道競馬で走らせていることを聞いた。

へええ。ニコリは種牡馬になっていたのか。元気に第二の人生を送っていたのだ。アメリカに渡っていたんだあ。ニコリって名馬なんだあ、とうれしくなった去年であった。

その後札幌の読者から「佐賀に売られた」と言う情報が入っていた。これは人間でいえば「栄転」ではなく「左遷」といってよい。おいおいちょっと待てよ、じゃあこの夏は北海道ではなく、九州に変更だと心中思っていたのであった。

そこに九州行きが勃発した。月刊「優駿」を見ると、月曜日に佐賀競馬は開催している。うーむ。

日曜日の夜に博多に入り、月曜の朝が来て何百日ぶりにネクタイを締め、コーヒーを飲みながらスポニチをみたらあなた、ミスターブーニーの名前が佐賀競馬第8レースに◎印がついてのっているではないですか。仕事はつつがなく終えまして。

佐賀駅は静かだった。競馬場行きのバスに揺られること50分。鳥栖市に入ると突然レンガ風のでかい建物が姿を現した。

14時50分。パドックでミスターブーニーとの感激の初対面である。いい男だ。でかい。536kgか。そうだよな。

「ニコリの子どもよ。お前を一目見るために東京から来たぞ。元気そうだなあ。今どういう生活をしているのだ。不自由はないか。周りの人はよくしてくれるか」

単勝の全売り上げが1万2千円のときに彼の単勝を5千円買ったら結局最後までダントツの1番人気であった。

結果は残念ながら4着。パカパカと2番手で追走していったが2頭に抜かれておしまい。一所懸命走っているのはわかるのだが闘争心がないようだ。今度勝てばいいさ。なんだかニコリ本人に会いたくなってしまった。今ニコリは生きていれば12才。あと10年は大丈夫だろう。行きたいなあ。アメリカかあ。

あっと、キャンペーンの応募総数は109万通だった。