雑誌をつくり配本し、集金する仕事の他に媒体へのパズル提供も増えていった。その他にも単発の依頼がくるようになった。依頼のほとんどが都内の出版社、編集プロダクション、企業なのでえっちらおっちらの都内往復が負担になってきた。

うーむ。パズル提供の仕事もおろそかにできんなあ。

「都内に引っ越そうか」

「そうしようか」

「何の問題もないよなあ」

「うん」

1985年(昭和60年)に、小田急線の参宮橋駅から3分のマンションに引っ越した。管理人室付き、廊下付きの部屋は何とも変わっていて、誰も借りないような地下の部屋だった。やけに汚かった「現状」の部屋をそのままでいいと言って借り、壁と低い天井をみんなで白く塗り替えたら見違えるくらい明るい部屋になったが、天井の板が水気を帯びているのが分かり、床板の一部も腐っていて仕事机の足が潜ってしまった。借り手がいなかったわけだ。

しかし住所が渋谷区になったことでうれしくて気合いが入っている私たちであった。この年あたりにいわゆる大手出版社のパズル雑誌が続々と創刊され、14誌乱立状態のピークを迎えている。そのほとんどがクロスワード雑誌だったので、私は第三次クロスワードブームと呼んでいる。

第一次は大正時代末期にアメリカからクロスワード(十字語遊戯)が渡ってきた頃だ。クロスワードの週刊誌も出るほどのフィーバーぶりだったらしい。

第二次は昭和30年頃。懸賞金額を高くした出版社があり、大流行したのだ。

そしてこの第三次ブームは3年くらいで終わり、4誌くらいに淘汰されてしまう。お決まりの粗製濫造の結果である。

私は漠然とペンシルパズルを普及させたいと思っていた。賞品目当てのプレゼントマガジンではなく、解いて味のある、個性のあるパズルはこちらで、と。ハンバーガーと一緒でパズルにもブランドがありますよ、と。でも知られていないんだよ。自慢しちゃうが「無名度」は高い。

ワンルームの事務所は狭いのと変わった間取りなので客はマンションに来させなかった。すべて駅前の「クレヴィス」という喫茶店で応対した。マスターのKさんが寛容だったので身内の会議も、資料を広げるのもそこでコーヒーをすすりながらやっていた。金銭的な内情もマスターにはばれてしまい、毎日励まされました。

商店街の外れにある「品華亭」という台湾料理の店は2階が雀荘で、食べる方も遊ぶ方もご主人のTさんにはお世話になった。

本の発送に使う段ボールは商店街を回って調達した。ニコリ本誌は缶ビール24個入りの段箱にピタリと入った。そのおかげで池袋のS書店の女性はニコリが入っているとは思わず、ずっと冷蔵庫の横に置いたままで過ぎた。私たちが悪いのであった。

ニコリ本誌は「極力季刊発行」から堂々と季刊になり、「クロスビー」も年2回刊から季刊になっていった。読者からのハガキを見て、2つの生きものをつくったんだなあ、と思った。