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この年もパズルを解きまくっていた。私と金元で1日中カックロを解き、つくり、解いていた。

あまりにのめりこんでしまった2人を樹村が思いきり怒ったことを覚えている。樹村が怒ったのはあとにも先にもこのときだけだ。

表紙のデザイン、本文のレイアウトは素人の私がやっていたのでその稚拙さにハラハラしている読者がいた。吉岡博である。彼はプロのデザイナーだったが、私はニコゴリというペンネームのパズル投稿者としてつきあっていた。

ニコゴリの本業を知り、なんだなんだそうだったのか、と本誌12号からすべてのデザインを頼むことにした。

あ、そうそう、本誌10号の表紙はノンちゃんこといしだのんさんに頼んでいる。画期的なパズル「ののぐらむ」を後に創った人だ。

読者との出会い、本屋さんとの出会い、ひょんな出会いからニコリの歴史はいつもつくられていった。

この年、清水が秋田から戻ってきて、5人体制になった。清水と樹村は頑固でわがままだったが、私ほどではないが楽天的だったので衝突は建設的な話ばかりだった。小林と金元もポジションをわきまえていたのですぐに5人が並列に仕事をするようになっていた。

ま、勝手に仕事をするということか。

私の社長はアダ名だと思っているが、この頃からそんな感じであった。

小林の代わりに集金に行ったとき、「今度社長に言っておいてね」と最後に一言、言われた。「私が社長なんですが」と言えず、「はい」と言って出た。私はジーンズ、小林はネクタイを締めているからなあ。

長期バイトはおかず、突発的な仕事があるときになじみの読者に手伝ってもらっていた。

新刊や増刷の本が2トントラックで着いたときはバケツリレーで2階まで運んだ。5人の誰もが運転手との「2人だけのバケツリレー」を経験している。これは辛かった。待機していればいいのだが、なぜか1人しかいないときにトラックはやってくるのであった。恐怖のバケツリレーはその後、倉庫兼発送業務を外注委託するまで6年間続いた。

5人ともパズルをつくっていた。3人体制の頃は投稿パズルを少しのアレンジだけで載せていった。難易度のバランスを考えて誌面を構成することよりも、編集側の感覚で単純に面白いパズルが誌面に咲いた。

そのうちに同じパズルでも初心者向け、中級者向け、上級者向けが欲しくなり、5人いるとそのバランスを考えてつくることができるようになった。そしてまた、こちら側から面白さを伝えたいパズルを載せ、パズルを育てていくことができるようになった。パズルそのものを編集する体制が整ったのであった。普通の人に遊んでもらいたい。初めてパズルを解く人に親切でありたい。パズルにはまった人には手応えのあるものを用意したい。

夜も町田駅前の居酒屋「とっくり」やホルモン焼きの「いくどん」でパズルの話。編集方針は? 遊びとはなんぞや? で酔っぱらっていき、最後はいつも勝手なルールの言葉遊びで終電、お開きとなるのだった。しゃべりまくり、頭の中を吐き出しながらアイディアを練っていた。

プレハブ長屋の2階も居心地がよい。ところがある日、清水が電卓のフタを開けたらびっしりと米粒ほどのゴキブリがいてひっくり返った。すぐ下のスナックがバルサンを焚いたのでゴキブリたちが逃げてきたらしいのだ。負けじとこっちもバルサンを焚いた。

またある日のこと。玄関のドアが開かなくなった。サッシが歪んで開かないようだ。嫌な予感がした。ドアの横においてある山積みの在庫をどけたら案の定、壁にひびが入っていた。大家さんには黙っていたらある日、大家さんが訪ねてきた。下のスナックの天井から水漏れがするのでニコリさんの床を調べたいという。案の定と言っていいのか、配水管にもひびが入っていた。

翌月からトナリの部屋も借りて在庫置き場にした。在庫は山積みにせず、部屋一面に平たくおいた。