1992年のニコリを振り返る

1992年に発売されたニコリ

37号 3月1日発行
38号 6月1日発行
39号 9月1日発行
40号 12月10日発行

1992年のニコリを振り返る

ここまでニコリは、ニコリ本誌と「クロスビー」という、2つのパズル雑誌を発行してきましたが、この年の12月に、クロスビーをニコリ本誌が吸収する形で合併することになりました。そして、合併した40号以降、ニコリ本誌は隔月刊で続いていくことになります。ということで、1992年は「第一次季刊時代」の最終年なのでした。

ちなみにこの頃、他社からもパズル雑誌が続々と創刊されていて、パズル雑誌界全体にとっても動きの大きな年でした。

37号は、まちがい探しがプチリニューアル。前号まではまちがいの数は91でしたが、この号では19に減り、次号から、38、78、40と個数は変化していくのでした。ちなみに40号以降は、号数と同じ数になっていきます。

38号では、懸賞パズルで点つなぎが初登場。ルール無用のお気楽パズルとして定着していきます。

37号で募集された「ニコリ・ダービー」の第2回結果が発表され、なんと720頭が参加し、120枠のうち、66、89、91、116枠の4頭のみが完走。ニコリダービー史上、もっとも過酷な(完走するのが難しい)回でした。

39号では、「オモロパズルのできるまで」でへやわけが登場。この頃は黒マスを主役にした新パズルを募集していて、その中で最大の出世作となりました。

この号から都沢陽子(都)がスタッフに加わり、編集後記でもデビューしました。

37~39号は、そう大きな変化はなかったのですが、クロスビーを吸収した40号は、当然ながら誌面がガラリと変わります。24ページ増え、定価は税込み780円にアップ。

パズルページでは、クロスワードが大幅増。ビックロを含めて16題前後掲載されるようになりました。

クロスワード以外では、連珠から生まれたパズル「ゴールは5」が初登場しています。

読み物ページも、大幅に変わりました。クロスビーで連載していた、真良碁氏の「日本語とお友達」と、くろがね・みちお氏の「あなたも私も読み間違えて」がこの号から本誌に掲載。

最初と最後だけ決められていて、途中でいかにぶっ飛んだ話を作るかを競う「発想飛びコンテスト」も、クロスビーから移動しました。ちなみに、この発想飛びコンテストと、以前から続いていたスケルトンコンテストは、ここから一号おきに開催されるようになります。なお、隔月刊化にともない、懸賞とコンテストの発表は、次々号に行うことになり、このあたりはちょっとややこしくなりました。

前号まで続いていた「パズル・アイ」は「ニコリ面白アンテナ」と名を変え、さらに幅広いテーマを取り上げるようになりました。その第1回は「小さい数、大きい数」。

「ニコリ平面放送局」も「(起)のそのとたんだ」に名を変えてリニューアル。内容的には、曲がかからなくなったということくらいの変更でしょうか。