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会社をつくった1983年(昭和58年)に「パズル通信ニコリ」は9号の1冊しか出ていない。理由は何だったのだろう?

事務所を設けると訪問客が増える。ある日、しつこい電話をする男が訪ねてきた。営業で協力したいという。ちょうどその頃、私たちはクロスワード専門誌を創刊する準備をしていた。パズルの投稿を常時募集していた誌面だったが、クロスワードの投稿がはるかに多く、これだけで雑誌がつくれるな、という量だったのだ。営業もプロの人がいてくれたらありがたい。とにかくやるっきゃない、前向きに動くしかないときだった。その男、小林茂が初めての社員となった。

読者もふらりと遊びに来るようになった。遊びの雑誌をつくっていたから来やすかったのか。高校生のえっちゃんは通学途中にほとんど毎日、同じく高校生のまみちゃんは近所から友だちを連れて遊びに来た。2人には本にスリップを挟む仕事を手伝ってもらったりした。そのうちに読者同士が仲良くなり、事務所が溜まり場になった。こりゃいかんと、読者開放日を毎週土曜日に設けた。これが今も続いている「放談会」の前身である。

この時期に月刊「ニコリスト」(A5判8ページ 年間購読料2500円)をつくった。本誌ができたら出すの不定期刊だったので、毎月制作状況をお知らせできればな、という趣旨だった。その紙面で事務所開放日を発展させ、「放談会」と名付け、読者との集いを行っていった。現在は東京以外でも、全国で手を挙げた読者が幹事となって関西、札幌、静岡などでニコリ読者の集いが行われている。

クロスワード専門誌「クロスビー」(56ページ 380円)は4月に創刊し、1992年の25号まで続く。これも最初は不定期だった。誌名は歌手のビング・クロスビーからとった。この歌手も最初は3人のグループで歌っていて、私たちも3人で始めたから、よし、と。こじつけなくてもいいんだけど。